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 投稿者:ねこ  投稿日:2011年 2月16日(水)10時58分31秒
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  まえの投稿の日付を見ると、なんと、1月17日とあるではないか。
もう1ヶ月近くも、さぼってしまった。
おふたりの投稿で、この掲示板のことを思い出すことができました。(笑)

frohさん
「二つの神」という表現は、僕は覚えていないのですが、
意味するところは、ラスコーリニコフにおよぶ矛盾したふたつの力のことでしょう。
つまり、社会のあり方について論理的に考えて、殺害を肯定する力と、
(あんなやつは存在しない方が、みんなのためだ!)
ソーニャ=ドゥーニャ(妹)=母親が体現する、愛の力です。
(「だれが生きて、だれが死んでよいかなんて、だれが決められるの」ソーニャ)
どちらも主人公を導く力という意味では、神になぞらえることも、
できるのでしょう。

このふたつの力のどちらにも、僕は説得力を覚えます。
その意味では、僕自身もラスコーリニコフと同じだなと思います。

rinrinさん
この物語の中で「一線をこえる」とは、殺人にふみきるということでしょう。
人を殺すことになれるものかどうかは、僕にはわかりません。
ただ、ふりかえれば、いくつかのことについて、僕も一線をこえてきたし、
こえれば、それが日常になってきたと思います。

たとえば母親になるということも、一線をこえることではないでしょうか。
大きな経験(出産)をへて、それまでとは質の違う存在になるのですから。
お母さんって、だけど、ごく日常的な存在ですよね。
殺人と出産(育児)では、どちらも命に関わりながら、
まったく方向の違ういとなみですが。

ひとつ思い出すのは、以前にもご紹介した、
フランクルの『夜と霧』にあった「人間はすべてになれうるものだ」という言葉です。
そもそも『罪と罰』からの引用だったわけですが、
強制収容所の体験をまとめる言葉として紹介されると、
もとの言葉に深みとある種の客観性(他者による検証)が与えられるような
気がします。おそらく殺人にも、人間はなれうるのでしょう。
rinrinさんが、お考えになっておられることとは、
いくらか方向性が違うのかもしれませんが。

さて、
長編小説だから、一度くらい読んでも、時間がたつと、また忘れてしまいますね。
今夜は仕事の宿泊先で、映画(DVD)でも見ようかと思ってたんだけど、
ドストエフスキーにしようかな。。。
 
 
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