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機械の歯車

 投稿者:ねこ  投稿日:2011年 1月16日(日)23時14分56秒
  通報 返信・引用 編集済
  最後の一日は-思いがけず訪れ、何もかも一気に決定してしまった-
ほんとんど機械的ともいうべき作用をおよぼした。
だれかに手をつかまれ、いやおうなく、わけもわからぬうちに、
超自然的な力で、有無をいわさず、引き立てられていくようだった。
着ている服の端を機械の歯車にはさまれ、
ぐいぐいそのなかに引き込まれていくようだった。(169)

ここはラスコーリニコフの犯行当日の心理描写。
僕たちの日常生活も多分に機械的なところがあるのだと思う。
どこかでシモーヌ・ヴェイユが尊敬する神父について、こんなふうに語っていた。

「鶏は他の鶏につつかれたら、自分も反射的につつきかえす。
人間の日常も、それと変わらない。そのような反射的な攻撃を
私が経験しなかったのは、その神父だけだった。」(『神を待ち望む』より意取)

ヴェイユほどの宗教的な感受性においては、
人間の日常は機械的な反射の束に見えるのだろう。
それは正しいと思う。

ただ僕などは、平日は職場で機械的に作業をこなしているけれども、
週末は、より自由であるような気がしている。
というか、平常は自分の意思や判断力が働いているような気がする。
それは生き方や考え方が曖昧だからともいえるけど、
人間には意思や判断力があるというのも、やはり一面の事実だろう。

ここでラスコーリニコフが自分で計画した殺害でありながら、
犯行当日は有無をいわさずに機械の歯車に引き込まれるようだったと
述べているのは、日常の底にある機械性が巨大な姿を現したということ
なのだろう。それは仏教の言葉では宿業と呼ばれるものに近い感覚ではないだろうか。

ただし、宿業には、そうでしかありえないこと(自己の機械性)への
悲しみがあると思う。ラスコーリニコフの場合は、意思と理性を誇っていたものが、
それとは異質な自分を支配する機械性の不気味な姿に直面して、
おののいているという様子だ。

ちなみに他人の論文で読んだのだが、古今の文学作品で登場する人殺したちは、
犯行時には、悪魔など自分以外の巨大な力によって引き回されているような
感覚を共通して語っているのだという。

理性の粋とも呼ぶべき計画的犯罪が、当人の実感では
機械の歯車に引き込まれるように遂行されるという、この話には、
小説(fiction)をこえた現実感(reality)がある。
すぐにはわかりそうにない。いつまでも、わからないかもしれない。
少し時間をおいて、考えたいと思う。

追伸、
frohさん、ご投稿とご質問、ありがとうございます。
ときどきでも、遊びに来てもらえるとうれしいです。
今年も、よろしくお願いします。
 
 
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