名古屋市南区 本地祭り




[0] 名古屋市南区 本地祭り

投稿者: sin

10月第1土・日曜日に開催される本星崎町(旧本地村)の星宮社の祭礼です。
本地祭りは宝暦5年(1755)の尾陽村々祭礼集にも記述がある古い歴史を持つ祭りで、廻間組、田古屋組(宮本)、町組、大道組が山車を出していました。
ところが、昭和43年を最後に山車が出なくなり、代わりに飾り付けた軽トラを使って祭りを行っていました。
その後、平成4年に解体保存されていた町組の山車が復活し、次いで、残っていた屋根等の部材を利用して平成12年に田古屋組が、平成14年には廻間組が、それぞれ山車を再建し、さらに平成17年に大道組が山車を新造したことによって、4台の山車がすべて復活しています。
また、現在では、本城町、星宮町の軽トラをベースにした山車も参加しています。

ご指名いただいたのでスレッドを立ててみました。





[7] 雷車

投稿者: ゆいさ 投稿日:2016年 4月17日(日)22時45分8秒  返信

本地まつりに一時期展示されていた、雷車です。現在名古屋市博物館の3階ギャラリーに展示されています。展示室に入らなければ、基本無料です。説明板によると、名古屋空襲で焼かれた和泉町、上畠町(昔、名古屋タイムスのあった辺り)の山車「雷神車」を所縁のあった江川町の有志が、那古野神社の床下にあった車輪を使って、戦後復元した山車とありました。和泉町は材木町に近かったので有力な材木商があったのでしょう、そこに出入りしていた職人衆が住んでいたのが江川町とのことで、梶方や引綱衆を輩出した所縁があった由です。西区浅間町の富士浅間神社の祭礼で曳かれていました。平成初期、休止していたのを本地町の有志が引き取って本地まつりに仮参加していましたが、結局名古屋市博物館に寄託されています。要望があれば名古屋まつりにも参加できる筈です(オーナーの意向次第ですが)




[6] 星宮町

投稿者: sin 投稿日:2014年12月23日(火)14時40分9秒  返信

星宮町も本城町と同様に新しい住宅地です。

ここも以前は飾りつけた軽トラで本地祭りに参加していましたが、平成17年に大道組が今の山車を新調した際、それまで大道組が使用していた平成5年製作の自動車山車を譲り受けました。

2008年4月20日撮影



[5] 本城町

投稿者: sin 投稿日:2014年12月23日(火)14時34分28秒  返信

本城町は新しい住宅地です。
以前は提灯などで飾り付けた軽トラックで本地祭りに参加していましたが、平成15年に自動車をベースにした今の山車を製作しています。この山車は、大工や仏具師、仏具錺職人が協力して、町内の有志が手弁当で製作したものです。

本星崎で近年建造された山車について特筆すべき点は、彫り物、塗り、金具などは専門家の手によりますが、大工仕事は大工に協力してもらいながら、地元住民が休日を利用して手弁当で行っていることです。これによって、山車製作に要する人件費を抑えることができますが、その反面、作業に参加する住民はせっかくの休日を潰して肉体労働をすることになるので、なかなか出来ることではないと思います。

2008年4月20日撮影



[4] 大道組

投稿者: sin 投稿日:2014年12月23日(火)10時54分4秒  返信

大道組の先代の山車は、名古屋の若宮から購入したという伝承が残っていますが、古い祭礼帳などは残っていないようで、先代の山車の由来は不明です。常滑市西之口に残されている資料によると、明治9年に鉄砲津の先代の山車が本地村に売却されていることから、これが大道組の先代の山車ではないかとも言われますが、大道組の方には資料がなく確認できません。

この先代の山車も、休止後は山車蔵の中で組んだ状態で保存されていましたが、相当老朽化していたらしく、平成元年に廃棄処分されました。
その後、平成5年に自動車山車を作りましたが、平成17年に、大工さんの指導の下、毎週休日に住民が作業に当たって現在の山車を建造しました。
平成26年には萬屋仁兵衛氏作の采振り人形を山車に乗せています。
なお、大道組でお役御免となった先代の自動車山車は、星宮町に譲渡され、今でも本地祭りに出ています。

2008年4月20日撮影
采振り人形の写真は2014年9月21日撮影



[3] 町組

投稿者: sin 投稿日:2014年12月23日(火)10時46分40秒  返信

町組の先代の山車は昭和20年5月の空襲で焼失しています。
この先代の山車は写真も残っていないようで、由緒も不明ですが、町組の祭礼帳である「永代定鑑」によると、明治24年に祭塗カエ、高ラン新調、前大亀ヌイナオシ、車直シが、明治28年に志んぼがえ(心棒取替え)が行われ、大正4年には名古屋門前町の梅金店にて高欄幕(水引幕)を新調しています。「前大亀ヌイナオシ」とありますから、大幕の正面に大きな亀の刺繍が入っていたのでしょうか。

「永代定鑑」には現在の山車の建造についても書かれていて、今の山車は昭和31年に再建されています。大工は、町内在住の岸尾伊與吉が棟梁となり、その他に小出一義、稲葉三造、稲葉春市、石川実、小出富次の5人の大工が関与しています。また、高欄幕(水引幕)と大幕は梅金商店で仕立てられており、年号や梅金商店の名前は水引幕の裏地や幕箱にも墨書きされています。

町組には他の組と違って山車を組んだまま納めておける山車蔵がなかったため、山車は解体保存されていました。そして、本町公民館建替えの際、物置から山車の部材が、床下から車輪が出てきて、車輪以外の部材は問題なく使える状態であったことから、山車復活の機運が高まり、平成4年に町組の山車が復活しました。車輪は、復活当初はゴムタイヤを使用していましたが、その後、木の車輪を新調し、平成20年には采振り人形を新調しています。

2008年4月20日撮影



[2] 田古屋組

投稿者: sin 投稿日:2014年12月23日(火)10時41分36秒  返信

田古屋組の山車は、田古屋組の祭礼帳である「祭事勘定帳」によると、明治35年旧1月29日に金160円で買い入れた山車で、同じ明治35年10月1日の所に祭車塗代、金物代などの記述があることから、購入してすぐに塗りを施したことがわかります。この「祭事勘定帳」には、山車をどこから買い入れたか書いてありませんが、太鼓の箱に、明治22年8月という年号や、「裏相生町」、「浦島車」と書かれていること、伊勢湾台風前には浦島太郎の人形のボロボロの衣装が残っていたという伝承があることから、現在の名古屋市東区相生町の浦島車を購入したものと考えられます。また、山車の墨書きから、山車を製作した大工は森棟九郎であることがわかっています。

田古屋組の山車は、休止後は山車蔵の中で組んだ状態で保存されていましたが、平成4年に屋根などの部材を使って自動車山車を作りました。
そして、平成12年に、残っていた屋根などの部材を使って、大工さんの指導の下、毎週休日に住民が作業に当たって本格的な山車を再建しています。

2008年4月20日撮影



[1] 廻間組

投稿者: sin 投稿日:2014年12月23日(火)10時37分52秒  返信

廻間組の山車は知多型外輪の山車で、前山の屋根裏の墨書きから、安政3年(1856)に建造され、大正3年に前山を修理したことがわかります。廻間組の祭礼帳の安政4年(1857)の所に、新車諸入用附や車蔵入用として、山車の新調や山車蔵の新築に要した費用の集計が記載されており、山車を製作した大工として鈴吉、彫物師として新兵衛という名前が見えます。

廻間組の山車は、休止後は山車蔵の中で組んだ状態で保存されていましたが、平成5年に屋根などの部材を使って自動車山車を作りました。
そして、平成14年に、残っていた屋根などの部材を使って、大工さんの指導の下、毎週休日に住民が作業に当たって本格的な山車を再建しています。

本地祭りへは夜に行くことが多く、少し前の写真になりますが、平成20年に行われた南区政100周年記念イベントの時の写真を投稿します。

2008年4月20日撮影


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