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かつての生活

 投稿者:ねこ  投稿日:2011年 3月17日(木)15時17分44秒
返信・引用
  「そこでだ、いいか、冗談はさておくとして、このあたりの地区から
偏見という偏見を一掃するため、おれはここでまず、
いたるところに電流を放とうって思ったんだ。」(290頁、第2部3節)

先日、仕事先で久しぶりに藁葺きの民家を目にした。
そのとき同行していた若い人が、この家って本当に住めるんですか、
とたずねてきた。実際に住んだことはないが、子供の頃は、
よく目にしていたと思う。また、友人の家に招待されて
泊まったことも、あるのではないかと思う。
やはり少しでも目にしておくことは大切なのだろう。
実際に目にしていないと、まったくイメージがわかないだけではなく、
別のイメージで置き換えてしまうのではないかと思う。

引用したのは、意欲的な事業家の一面を持つラズミーヒンの言葉。
とりたてて論ずるほどの内容ではないだろうが、ここを読んでいて、
初めて当時のペテルブルクでは、まだ、ほとんど電灯がなかったのだ
ということに気づいた。物語の中で薄暗い夜道が描かれていても、
勝手に、ぼんやりとした電柱の灯りなどをイメージしていた。
ラスコーリニコフの下宿も、暗い裸電球くらいは点いているような
イメージで読んでいる。ランプか、そうでなければ何も灯りのない
生活などというものは経験がなく、想像さえできないのだ。

そういえば、初めにドイツ語訳で読んだときもイメージの相違に困った。
訳文にWagenという言葉が出てくるのだが、これは現代語ではクルマの意味。
しかし、当時のペテルブルクでクルマが走っているわけがない。
これは当然、馬車の意味だ。ところが、そうわかっていても、
Wagenが出てくると、どうしてもトヨタやホンダをイメージしてしまう。

民俗博物館などで、古い民家や農具などを目にすると、
あれは生活の命のない死物だと思う。
坂口安吾(『日本文化私観』)であれば、ほんとうに生きるために、
そんな死物は捨ててしまえというかも知れない。
しかし、歴史や文学を学ぶうえでは、かつての生活をイメージするために、
かりに博物館の展示物であっても目にしておくことは大切なんだろうと思う。
 
 

アリョーナとリザヴェータ

 投稿者:ねこ  投稿日:2011年 2月25日(金)15時58分58秒
返信・引用
  アリョーナとリザヴェータは、ラスコーリニコフに殺害される異母姉妹。
そもそも主人公の青年は金貸し老女アリョーナだけを殺すつもりだった。
リザヴェータの方は、女主人公ソーニャの分身のような存在で、
物語の中ではイエス・キリストを体現しているともいえる。
ラスコーリニコフも、このリザヴェータに手を下す気は、まったくなかった。
ところが金貸し老女は、たいてい妹とともにいて、アパートでひとりきりに
なる機会がない。しかし、あるとき彼は街を歩いていて、次の夕方、
妹のリザヴェータが商人の夫婦に招待されるところを耳にしてしまう。
その時間は、金貸し老女は部屋で一人きりになるはずだ。
そう知った彼は、一度は断念した殺害を決行することにする。

このことで、ずっと、わからないことがあった。
『罪と罰』の研究書などでは、ラスコーリニコフの時間の聞き違いなどが、
あれこれと詮索されている。それはよしとして、もっと根本的な問題は、
なぜ作者は主人公の青年にアリョーナとリザヴェータの二人を同時に殺すように
仕向けたのか、ということだ。

『罪と罰』は世界最大の推理小説とも称される。
たしかに殺されたのがアリョーナ婆さんだけで、
あとは真犯人ラスコーリニコフが追いつめられていくだけの話なら、
推理小説の枠に収まる話となるだろう。
しかし、問題となるのは聖女リザヴェータの殺害だ。

彼女が招待される時間をラスコーリニコフが聞き違えたのなら、
それはそれでいい。種明かしは研究者に任せよう。
問題は、作者が主人公にリザヴェータへの殺害も背負わせたということだ。

そもそも彼は金貸し婆さんだけを殺すつもりだった。
しかし、彼の意図したとおりには事は運ばず、
予定外の聖女殺しが付け加わることになった。
それは物語の表面をなぞれば偶然の出来事だが、
作者の意図を探るなら、ある種の必然を意味しているのではないだろうか。
ソーニャは「だれが生きて、だれが死んでよいかなんて、だれが決められるの」
と問いかける。

僕たちはアリョーナでもリザヴェータでもない。
金の計算ばかりしているときもあれば、そんな日暮にため息をついて、
聖なる世界を夢見たりもする。
つまり、僕たちはアリョーナでもあるし、リザヴェータでもある。

ラスコーリニコフは金貸し婆さんだけを殺そうとした。
しかし、そんなことが可能なのだろうか。
アリョーナを殺すということは、実はリザヴェータも一緒に殺してしまう
ことではないだろうか。主人公の意図をこえた結果をもたらした殺害事件。
この物語の構成には、そのような問いが込められているような気がする。
 

返信

 投稿者:ねこ  投稿日:2011年 2月16日(水)10時58分31秒
返信・引用
  まえの投稿の日付を見ると、なんと、1月17日とあるではないか。
もう1ヶ月近くも、さぼってしまった。
おふたりの投稿で、この掲示板のことを思い出すことができました。(笑)

frohさん
「二つの神」という表現は、僕は覚えていないのですが、
意味するところは、ラスコーリニコフにおよぶ矛盾したふたつの力のことでしょう。
つまり、社会のあり方について論理的に考えて、殺害を肯定する力と、
(あんなやつは存在しない方が、みんなのためだ!)
ソーニャ=ドゥーニャ(妹)=母親が体現する、愛の力です。
(「だれが生きて、だれが死んでよいかなんて、だれが決められるの」ソーニャ)
どちらも主人公を導く力という意味では、神になぞらえることも、
できるのでしょう。

このふたつの力のどちらにも、僕は説得力を覚えます。
その意味では、僕自身もラスコーリニコフと同じだなと思います。

rinrinさん
この物語の中で「一線をこえる」とは、殺人にふみきるということでしょう。
人を殺すことになれるものかどうかは、僕にはわかりません。
ただ、ふりかえれば、いくつかのことについて、僕も一線をこえてきたし、
こえれば、それが日常になってきたと思います。

たとえば母親になるということも、一線をこえることではないでしょうか。
大きな経験(出産)をへて、それまでとは質の違う存在になるのですから。
お母さんって、だけど、ごく日常的な存在ですよね。
殺人と出産(育児)では、どちらも命に関わりながら、
まったく方向の違ういとなみですが。

ひとつ思い出すのは、以前にもご紹介した、
フランクルの『夜と霧』にあった「人間はすべてになれうるものだ」という言葉です。
そもそも『罪と罰』からの引用だったわけですが、
強制収容所の体験をまとめる言葉として紹介されると、
もとの言葉に深みとある種の客観性(他者による検証)が与えられるような
気がします。おそらく殺人にも、人間はなれうるのでしょう。
rinrinさんが、お考えになっておられることとは、
いくらか方向性が違うのかもしれませんが。

さて、
長編小説だから、一度くらい読んでも、時間がたつと、また忘れてしまいますね。
今夜は仕事の宿泊先で、映画(DVD)でも見ようかと思ってたんだけど、
ドストエフスキーにしようかな。。。
 

一線

 投稿者:rinrin  投稿日:2011年 2月15日(火)20時17分52秒
返信・引用
  一線を超えるか、超えないか、という表現があるが、
一線とは何だろう。その線は人類共通なのだろうか。
もし一線を超えたとしても、
それに慣れっこになってしまったら、
その線は消えてしまうのだろうか。
 

二つの神

 投稿者:froh  投稿日:2011年 2月14日(月)21時02分6秒
返信・引用
  ラスコーリニコフは殺人をするか、しないか考えていたとき、
二つの神に誘惑されてる。
例えば、殺人の前、母からの手紙を彼に読まして、止めようとしているように見える。
という解釈が、たしか「罪と罰ノート」という本のどこかで、出できたきがする。
この解釈、また、僕の記憶が正しいのなら、
この二つは何か特定の神のことを指しているのだろうか?
 

死刑宣告

 投稿者:ねこ  投稿日:2011年 1月17日(月)13時59分29秒
返信・引用
  アパートまでわずか数歩しかなかった。
死刑を宣告された男のように、部屋に入った。
何も考えてはいなかったし、何ひとつ考えられもしなかった。
だが、全身で感じとっていたのだ。自分にはもう判断の自由も、意志もないということ、
すべてが突如として、最終的に決定されてしまったということを。(151)

計画した犯行などは、とうてい自分には実行できない、
そうラスコーリニコフは考えていた。
ところが彼は夕暮れに町を歩いていて、たまたま、
金貸し婆さんの妹リザヴェータが明日の夕方6時過ぎに
商人の夫婦に招待されるところを耳にしてしまう。
そうすると、その時間は金貸し老女アリョーナは自宅に一人きり
ということになる。そう知ると、ラスコーリニコフはどうしても
殺害を決行しなければならないと思い立つ。
婆さんが一人きりになる時間を見つけることは、彼の計画にとって、
どうしても必要な最後のワンピースだった。
ところが、実際に犯罪を行う段になると、彼は、
まるで自分が死刑宣告を受けたような気分になり、意志も判断力も失ってしまう。
彼自身が、いわば完全犯罪を遂行する人形になってしまったのだ。

すべての理性的計画には、そのような側面があるのだろう。
緻密な計画が動き出せば、計画を練り上げた当人は傍観者となってしまう。
その意味では、実行段階に入れば、計画者の意志や判断は及ばなくなる。
しかし、それを見守る目には、計画通りに事が運ぶように念ずる祈りが
あるのではないだろうか。

ところが、ラスコーリニコフは死刑宣告を受けたようにうなだれてしまう。
それは道徳上の問題はすべて解決したといいながら、その点で、
大きな過誤があったのではないだろうか。

社会の繁栄のためには、シラミは殺してもいいのだろうか。
ラスコーリニコフは殺してもよいと考えている。
それ以上の考えは、彼には及ばなかった。
しかし社会のために個人(害悪)を抹殺するという判断が、
ありうるのだろうか。

主人公は人を殺してもよいという道徳的な判断から、
実は逃れたかったのではないだろうか。
老女を殺害することは、彼自身の道徳的判断を実現することになる。
そのとき彼自身が死刑宣告を受けたような気分になったというのは、
とてもおもしろい。おそらく老女殺害によって、
彼自身の中の何かが殺されることになったのだろう。
 

機械の歯車

 投稿者:ねこ  投稿日:2011年 1月16日(日)23時14分56秒
返信・引用 編集済
  最後の一日は-思いがけず訪れ、何もかも一気に決定してしまった-
ほんとんど機械的ともいうべき作用をおよぼした。
だれかに手をつかまれ、いやおうなく、わけもわからぬうちに、
超自然的な力で、有無をいわさず、引き立てられていくようだった。
着ている服の端を機械の歯車にはさまれ、
ぐいぐいそのなかに引き込まれていくようだった。(169)

ここはラスコーリニコフの犯行当日の心理描写。
僕たちの日常生活も多分に機械的なところがあるのだと思う。
どこかでシモーヌ・ヴェイユが尊敬する神父について、こんなふうに語っていた。

「鶏は他の鶏につつかれたら、自分も反射的につつきかえす。
人間の日常も、それと変わらない。そのような反射的な攻撃を
私が経験しなかったのは、その神父だけだった。」(『神を待ち望む』より意取)

ヴェイユほどの宗教的な感受性においては、
人間の日常は機械的な反射の束に見えるのだろう。
それは正しいと思う。

ただ僕などは、平日は職場で機械的に作業をこなしているけれども、
週末は、より自由であるような気がしている。
というか、平常は自分の意思や判断力が働いているような気がする。
それは生き方や考え方が曖昧だからともいえるけど、
人間には意思や判断力があるというのも、やはり一面の事実だろう。

ここでラスコーリニコフが自分で計画した殺害でありながら、
犯行当日は有無をいわさずに機械の歯車に引き込まれるようだったと
述べているのは、日常の底にある機械性が巨大な姿を現したということ
なのだろう。それは仏教の言葉では宿業と呼ばれるものに近い感覚ではないだろうか。

ただし、宿業には、そうでしかありえないこと(自己の機械性)への
悲しみがあると思う。ラスコーリニコフの場合は、意思と理性を誇っていたものが、
それとは異質な自分を支配する機械性の不気味な姿に直面して、
おののいているという様子だ。

ちなみに他人の論文で読んだのだが、古今の文学作品で登場する人殺したちは、
犯行時には、悪魔など自分以外の巨大な力によって引き回されているような
感覚を共通して語っているのだという。

理性の粋とも呼ぶべき計画的犯罪が、当人の実感では
機械の歯車に引き込まれるように遂行されるという、この話には、
小説(fiction)をこえた現実感(reality)がある。
すぐにはわかりそうにない。いつまでも、わからないかもしれない。
少し時間をおいて、考えたいと思う。

追伸、
frohさん、ご投稿とご質問、ありがとうございます。
ときどきでも、遊びに来てもらえるとうれしいです。
今年も、よろしくお願いします。
 

あけましておめでとうございます

 投稿者:froh  投稿日:2011年 1月15日(土)22時00分23秒
返信・引用
  お久しぶりです。あけましておめでとうございます
しばらく来ていませんでした。
話が進んでいるかな?と思いましたが、あまり進んでいませんね。
(ほとんど「ねこ」さんの一人しゃべりになっていて、ちょっと悲しいですね。)

質問なのですが、わかる人がいたら答えてほしいです。
昔の小説を読む時は、その時代の背景がわかっていることは大切(必要)ですか?

例えば(ねこ  投稿日:2011年 1月10日(月)18時39分39秒)に、
 ・『罪と罰』を読んでおどろくのは、この150年も昔のロシアが、
  すでに金まみれの社会であることだ。
と、書かれていたのですが、僕は150年前のことは日本のことについてもよくわかりません。
ましてや、ロシアのことなんかさっぱりです。

この小説の作者の伝えたいこと明確につかむためには、
そういうことを知るのは必要不可欠なのでしょうか?
 

人間(商品)

 投稿者:ねこ  投稿日:2011年 1月10日(月)18時39分39秒
返信・引用
  みなさん、新年、あけましておめでとうございます。
この読書会(掲示板)、ほそぼそとですが、もう少しがんばって
続けていこうと思っています。どうか、ご支援下さい。
ということで、まずは引用。

わかってるのか、ドゥーニャ、ルージン某といっしょになる
おまえの運命と引きくらべ、ソーニャの運命が汚らわしいなんて、
ひとこともいえないぞ。(108)

『罪と罰』を読んでおどろくのは、この150年も昔のロシアが、
すでに金まみれの社会であることだ。
経済力が支配する社会で、人々は金にまみれて生きている。

経済が力を持つということは、人々の発想や生き方が、
商品を目指しているということだ。

ここで引用したのはラスコーリニコフの言葉。
この物語で聖なる存在とされ、もっとも商品から遠い存在といえるのは、
ソーニャとドゥーニャだろう。
このふたりに導かれるように、殺人者となった主人公は自分の存在を
取りもどしていく。

ところが、この聖女たちも、経済社会のただ中では、
商品へと身を落とさざるをえない。
周知のようにソーニャは家族のために娼婦となり、
ドゥーニャは兄と母を経済的に助けるために、
嫌悪を催すような役人ルージンと一緒になろうとする。

商品経済の中では、人間自身も商品へと落ちていく。
それでは、人間はどうすれば人間を回復することができるのだろうか。
このような問いを縦糸として『罪と罰』を読むことは十分に可能だろうし、
それは僕たちの日々の問題でもあると思う。
 

あらゆることに なれうるもの

 投稿者:ねこ  投稿日:2010年12月26日(日)22時57分4秒
返信・引用
  それにしても、なんていう井戸を掘り当てたもんだ!それをのうのうと利用している!
じっさい、平気な顔で利用しているときた!で、慣れっこになっている。
ちょっぴり涙を流したら、もうすっかり慣れっこだ。
人間っていう卑劣な動物は、何ごとにも慣れっこになっちまう。(68)

引用はラスコーリニコフの言葉。ここで掘り当てた井戸と呼ばれているのはソーニャのこと。
貧窮の挙句、娘を娼婦に仕立てて食うようになったマルメラードフ一家を評して、
主人公の青年は「人間っていう卑劣な動物は、何ごとにも慣れっこになっちまう」と言っている。
流れに乗って読んでいけば、特に気にならないところだ。

ここでこれを引いたのは、実は『夜と霧』で引用されているから。
フランクルがアウシュビッツでの体験をまとめて、ある章の最後に
「ドストエフスキーがこう言っている、人間はあらゆることになれうるものだ」と
まとめている言葉が記憶に残っていた。
今回『罪と罰』を再読して、こんなところにあったんだと気がついた。

フランクルはドストエフスキーの言葉の方向性を正確に受けとめていると思う。
さらに、アウシュビッツの経験を考え抜くことで、ドストエフスキーの言葉に
深みと広がりを与えている。本を読むとか、先人の言葉を解釈するということは、
本来、こうしたものなのだろう。ひとつの範例として覚えておきたい。
 

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